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スリランカの仏教


 現在の南伝仏教の直接的なルーツは、インド亜大陸南方に浮かぶ島国、スリランカにある。紀元前三世紀頃、アショーカ王の子と言われるマヒンダがスリランカに仏教を伝え、その地で醸成された上座部の教えが、東南アジア諸国に伝わったのである。

 スリランカの仏教は、伝来以降、後継僧に恵まれ、国王をはじめとする在家信者にも支えられ、順調に発展した。仏教教理の研究も大幅に進み、なかでも、五世紀に南インドから来島した学僧ブッダゴーサは、多くの著作を著し上座部の教理を大成した。彼の著書『清浄道論』は、その後の僧侶たちにとって、教理理解や修行実践の指針になった。

 さて、順調に発展したかに見えるスリランカの仏教の歴史は、決して平坦なものではなかった。紀元前一世紀頃、スリランカの上座部が分派して以降、しばしば対立抗争が起こるようになったのである。各派は大乗仏教に対する態度を異にしており、アバヤギリ派がインド亜大陸から伝わる大乗を容認していたのに対して、マハーヴィハーラ派は上座部の教えのみに依拠し、大乗を排除した。このような状況下、ついに一二世紀後半、国王パラッカマバーフ一世が当時堕落していたサンガ(僧団)の粛正を図り、保守的なマハーヴィハーラ派のみを認め、残りの派も同派に統一した。この時、スリランカにおける大乗仏教は消滅したと考えられている。


スリランカの古都ボロンナルワの建設にかかわったシンハラ王朝の王、バラッカマバーフ1世像。
写真 田村仁


植民地支配の危機と相互交流

 その後も苦難の歴史は続いた。スリランカは一六世紀初めから約四世紀半、ポルトガル、オランダ、イギリスによる植民地支配を受けることになり、この間、政府と結びついたキリスト教の担い手たちが、スリランカの仏教徒に改宗を迫っていった。

 このような仏教壊滅の危機は、他の東南アジア諸国の比丘たちによって救われることになる。一五九二〜一六〇四年と一六九七年の二回にわたりミャンマーから比丘を招き、一七五六年にはタイから比丘を招き、僧団は復活した。

 一方、逆にスリランカの僧団が他国の僧団復活に貢献することもあった。時期は前後するが、一四七六年にミャンマーから比丘を受け入れ、戒律の伝統を受け継がせたのがその例だ。帰国した比丘たちはミャンマーの仏教復興に大きな役割を果たしたという。このように、南伝仏教の諸国は、相互扶助により現在まで仏教の命脈を保っているのである。

 なお、この地には仏教の教えだけではなく、仏教の二つのシンボル、菩提樹仏歯も伝えられている。

 前三世紀、マヒンダの妹とされるサンガミッター長老尼によって、ブッダ成道の地ブッダガヤーからスリランカに菩提樹がもたらされた。以来、菩提樹の枝木は次々と挿木され、この地に多くの菩提樹が根づいていった。

 一方、史書『マハーヴァンサ』によれば、仏歯は、あるバラモンの女性によって南インドのカリンガ(現在のオリッサ州)から、四世紀にもたらされたようである。現在、仏歯は黄金の舎利容器に納められ、古都キャンディの仏歯寺に安置されている。この二つのシンボルは、釈尊の存在を身近に感じさせるものとして、現在でもスリランカの人々の篤い崇敬を受けている。

(文・鈴木健太 すずき・けんた 一九七四年、愛知県生まれ。
専門は仏教学、インド仏教。著書に『「般若経典」を読む』(共著)など。東京大学COE研究員)


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